(註2) ”脳死”と”臓器移植法”の関係


はじめに ”臓器移植” ありき、そのために ”脳死” 概念の普及と認識の定着化やったよね。 ”臓器移植法” 成立を急ぐあまり、 ”脳死” の議論が尽くされたっちゅう印象ないよネ~。 覚えてますか? ’68年 札幌医大での和田教授心臓移植事件が呪縛となって、 日本では心臓移植手術はタブー視されてきたんやね。 死亡確認があいまいでは、医者といえども殺人罪や死体損壊罪を免れんからね。

臓器移植 特に心臓移植は、心停止まで待ってたんでは話にならんし、他の臓器にしても心停止まで待ってたら良い状態での臓器摘出・移植は望めないっちゅうんで、 ”脳死” を ”人の死” として認めようって、 やっぱり ”臓器移植” が前提での ”脳死” の議論やね。

”脳死” と ”植物状態” の違いって分からへんでしょ? でも ”脳死” が分かったような気になってる。 日本人の総意として ”脳死” は ”人の死” であるっちゅうのは、はたして成立したんやろか? ”臓器移植” を否定するつもりあらへんし、 ”脳死” が ”人の死” であるっちゅうのも 納得できるんやけど、性急な ”臓器移植” は、本当に患者のための ”臓器移植” になったんやろか?